創造人×話

ロボットが日常の風景になる未来をつくっていきたいと考えています。

松井 龍哉さんフラワー・ロボティクス株式会社
代表取締役社長/ロボットデザイナー

今回は、「ロボットを日常の風景にする」ことをビジョンとして、人に寄り添うロボットの在り方を追求しながら新しい産業の創出を提唱する企業、フラワー・ロボティクス株式会社の代表取締役社長であり、日本を代表するロボットデザイナーとして第一線で活躍を続けていらっしゃる松井龍哉さんをご紹介します。

フラワーガールをイメージしたヒューマノイドロボット「Posy」

松井さんは、これまで「Posy」や「Palette」など、数多くのオリジナリティ溢れるロボットを開発され、ロボットデザイナーの第一人者として日本はもちろん海外からも注目されていらっしゃいます。デザイナーという職業は少年時代から目指していた道だったのですか?

私が子どもの頃は、ロボットの漫画とかアニメがたくさんあって、だいたい男の子は皆好きだったのですが、大方の男の子は「ロボットに乗って地球を守る!」というヒーローに憧れるタイプでした。私は、そうではなくて「あのロボットを作りたい」と思うタイプで、私にとってのヒーローは、作っている側の白衣を着た博士とかで少数派だったことを覚えています。とは言え、ロボットをどうやって作るのかも分からず、周りにロボットを作っている科学者もいません。そこで、ものを作れるのは大工さんということで、ちょうどたまたま自宅の改装工事で大工さんが出入りしていたこともあり、家の建て方や図面の描き方とかいろいろなことを教えてもらいました。2階に瓦を運ぶベルトコンベアのような機械を見て興味を持ち、大きくなったら、大工さんのためのロボットを作りたいと思っていましたが、その頃はまだ幼くてデザイナーという職業があることも知りませんでした。

小さな頃から、ものを作る側に魅力を感じていたのですね。

小学校ではクラスのロゴマークや遠足のしおりのデザインなどを一手に引き受けたり、友達とリニアモーターカーのプラモデルを作った時もボディのデザインを担当したりしていましたので、やはり何かを作ることが好きな子どもだったと思います。そして小学校6年の時にNHKの「日曜美術館」という番組でデザインという概念を知り、デザイナーになりたいと思うようになりました。

動くことで洋服を魅力的に見せるマネキン型のロボット「Palette」
「Palette」の上半身バージョンロボット「Palette U.T.」

中学生になる前にすでに進路が決まっていらした松井さんが、ロボットデザイナーとして活躍されるまでのキャリアをお教えください。

デザイナーを目指して日本大学藝術学部に行こうと決め、高校から付属の日本大学鶴ヶ丘高等学校に進みました。大学卒業後は、丹下健三・都市・建築設計研究所に勤務し、5年ほど在籍させていただき、その後フランスへ渡り、1年ほどパリの大学の研究室で学んだ後にIBM・Lotusフランス社に入って、ソフトウェアのインターフェース・デザインなどの研究をしていました。そのうちに、ゲームの設計では自分の理論そのままの世界を簡単に作ることが出来るけれど、建築の現場にいた経験から、現実の世の中はロジック通りにはいかないことの方が多いし、だからこそ面白いのではと思うようになりました。そして、そこに実際にものがあるということの大切さに改めて気づきました。そんな中、何かを調べている時に、懐かしくて新しい響きのロボットという言葉を発見し、ロボットは物理的に空間の中に存在し、ネットワークを通じて様々な可能性に繋がっていくものであるという、その可能性の高さに魅力を感じました。

少年時代に憧れていた、ロボットを作る側になりたいという夢に再会したのですね。

小鳥型のロボット「Polly」

フランスでサッカーのワールドカップが開催された1998年に、パリの科学館では世界中のロボットが集まってサッカーをするロボカップ世界大会があったのですが、ロボカップは「2050年までに自律型ロボットでワールドチャンピオンに勝つ」という壮大な夢に向かって、人工知能やロボット工学の研究を推進し様々な分野の基礎技術として波及させることを目的としたプロジェクトであることを知り、とても興味を持ちました。そして日本に帰国後、AI(人工知能)の第一人者であり、ロボカップ発起人の一人でもある北野宏明氏が統括されていた科学技術振興事業団のERATO北野共生システムプロジェクトに参加することになりました。研究所にはたくさんの優秀な科学者がいて刺激を受けつつ、ヒューマノイドロボットのデザインに携わり、その経験を活かして2001年にフラワー・ロボティクスを創業しました。